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アルタクセルクセスの王宮址遺跡

アルタクセルクセスの王宮址遺跡

EU加盟国(北欧)

2006/03/27
デンマーク


 デンマーク王国は、面積4万平方キロ(九州と同規模。ただしフェロー諸島及びグリーンランドを除く)、人口540万人の北欧の一国である。その国土はスカンディナヴィア半島に相対して突き出して北海とバルト海を隔すユラン(ユトランド)半島と100以上の大小の島々からなり、最高地点でも173mときわめて平坦である。1416年以来の首都ケベンハウン(コペンハーゲン)はシェラン島の東岸にあり、その対岸はスウェーデンになる。デンマークには一度行ったことがあり、海沿いに林立する風力発電の巨大な風車が印象に残っているが、この国は環境保護意識が強い。
 日本では「人魚姫」に代表されるハンス・クリスティアン・アンナセン(「アンデルセン」はドイツ語読み)の童話、ロイヤル・コペンハーゲン(磁器)やダンスク(家具)といった工芸品、世界中で愛される玩具「レゴ」、「ドグマ95」に代表されるハリウッドとは対照的な作風の映画など、裕福そして平穏な小国というイメージがある。実際に一人あたりGDPは2万9千ドルと高い。
 しかしその辿った歴史は、こんにちのイメージに反して平和な小国のそれではなかった。

 氷河期の影響で土地の痩せたデンマークでは狩猟採集生活の旧石器・中石器時代が長く続き、エルテベレ貝塚などの遺跡がある。紀元前4000年頃、南方から農耕が伝わって新石器時代が始まり、巨石墓が建設された。紀元前2000年頃に始まる青銅器時代には、デンマークはヨーロッパ大陸とスカンディナヴィア半島間の交易の掛け橋となり、北方からは琥珀や銅が、南方からは錫や地中海文明の文物が取引された。紀元前600年頃、やはり南方からの影響で鉄器時代が始まる。なおこうした石器・青銅器・鉄器という道具素材の発達によって先史時代を区分する考古学研究法は、デンマークでの出土遺物を元にデンマーク人学者クリスティアン・トムセンにより確立された(1836年)。
 この頃のデンマークの住民は原ゲルマン人であると考えられている。彼らには泥炭湿地に供物として戦利品や人間を沈める習慣があったようで、そうした遺物が多く見つかっている。彼らが歴史に登場するのは紀元前113年、ユラン半島に住むキンブリ族とテウトニ族が新天地を求め南方に大挙移動したときからである。彼らは長駆ガリア(フランス)をさまよった末ローマ軍に撃破された。ローマ帝国が衰退した5世紀には、ユラン半島からユート族やアンゲル族といったゲルマン系諸族がイギリスに渡った。前近代は土地の痩せたデンマークでは農業生産が不安定であり、こうした移動の波は青銅器時代以来たびたび起きている。

 デンマークに住む人々が再び歴史の表舞台に登場するのは8世紀末、デーン人の船団による北海沿岸襲撃からで、フランク王国のカール大帝を苦慮させた。なお「デンマーク」という国名はカール大帝がデーン人との境界にマルク(辺境伯領)を置いたことによるいわば他称に由来している。ドイツとの間にはその後も緊張が続き、デーン人によってダネヴィアケと呼ばれる土の長城が建設されている。
 さらに9世紀になるとデーン人は外海に乗り出し、同族のノルウェー系やスウェーデン系と併せてノルマン人もしくはヴァイキングと通称される。最初は河川を遡行しての略奪に留まっていたが、838年にはイングランドに襲来、866年にはその北東部を支配下に収め、その地域はデーンローと呼ばれ、その支配は一世紀以上続く。デンマーク系ヴァイキングは844年にはポルトガル、859年には南仏、862年にはイタリアにも姿を現わした。896年にはフランス北部に定住し、フランス王からノルマンディ公の地位を与えられている。ヴァイキングは海賊・戦士というに留まらず、海の交易商人でもあり、ハイタブ(へゼビュー)などの交易都市が繁栄した。
 イェリングに残るルーン文字碑文によれば、部族の寄せ集めだったデンマーク本国では、940年頃にゴーム老王がユラン半島を根拠地に統一国家としての体裁を整えたという(現存する欧州最古の王家)。この碑文を残した息子のハーラル青歯王は960年頃に洗礼を受けてキリスト教徒となった。ハーラルの孫クヌーズ大王はデーン人の遠征先イングランドで王に推戴され、1019年には弟の死によってデンマーク王を兼ねた。さらに1028年にはノルウェーをも征服、北海を囲む大国を作り上げた。彼の治世下、イングランドからの宣教活動でデンマークにキリスト教が広まった。
 その後一世紀ほど王位を巡る内紛で衰退し海外領を失ったが、ヴァルデマー1世のときに再統一、ポメラニア(ドイツ)などバルト海沿岸を征服する。さらにヴァルデマー2世勝利王のとき、ノルウェーやエストニア、ラトヴィアを征服し再び大国となるが、1227年にのちにハンザ同盟の盟主となるリューベック市や北ドイツ諸侯の連合軍に敗れ、バルト海の制海権をドイツ人に奪われた。国内では1282年に貴族によって大憲章を認めさせられ、王の権力が制限された。その後も王位をめぐる貴族の争いは続いた。
 ペストの流行(1350年)で貴族の多くが死んだことを奇禍として、ヴァルデマー4世復興王は王権を中興した。その後継者にはヴァルデマーの娘マルグレーテ(ノルウェー王妃)の息子が選出されノルウェー王も兼ねたが1387年に夭折、マルグレーテが両王位を継いだ。マルグレーテは隣国スウェーデンの反対派に要請されてその王を撃破、1397年にカルマル同盟を結成してスカンディナヴィア三国の王位を兼ね、デンマークは三たび北欧の大国にのし上がる。
 シェイクスピアの悲劇「ハムレット」の舞台とされるクロンボー城は、海峡を通る交易船から通行税を徴集するためにこの頃に築かれた城である。

 しかしスウェーデン国内には反デンマーク派貴族も多く、叛乱が相次ぎ治まらなかった。デンマークの弾圧に対してスウェーデンでは叛乱が起き、ついに1523年にカルマル同盟を離脱した。おりしもドイツでルターが宗教改革を始めた時期で、1527年にはデンマークにも及び、王位継承も絡んで混乱する。旧教側のトロンハイム司教によるノルウェー王擁立工作もあって1536年にデンマークとノルウェーは新教国となり、教会財産は没収された。
 ハンザ同盟の衰退後、バルト海の覇権をめぐりデンマーク、スウェーデン、ポーランドの三国は争う(1563年からの北方七年戦争など)。1625年、デンマーク王クリスティアン4世はシュレスヴィヒ・ホルシュタイン公としてドイツ三十年戦争(1618~48年)に新教側で参戦、しかし旧教軍に敗れて1629年に敗北同様の講和をする。翌年それに代わって新教側で参戦し勇名を馳せたのがスウェーデン王グスタフ2世アドルフだったが、スウェーデンが興隆するのに対し、デンマークは衰退を始める。
 1643年に両国は開戦したが、スウェーデンの近代軍隊に敗退しポメラニアを割譲、さらにポーランドと組んでスウェーデンに挑戦するが逆襲され、1658年のロスキレ条約でスカンディナヴィア半島南端部の領土を失った。1660年にフレデリク6世は貴族の権力を制限し絶対王制の樹立に成功するが国威は傾く一方で、1700年に始まる北方戦争ではロシアやポーランドと組んでスウェーデンに再度挑戦するも為すところ無く、結局ロシアのバルト海での覇権樹立を助けただけだった。
 フランス革命(1789年)後の混乱で登場したフランス皇帝ナポレオンは、ヨーロッパ全土を戦乱に巻き込んだ。デンマークは当初中立を維持したがイギリス海軍の攻撃を受け、フランスとの同盟を余儀なくされる。しかしナポレオンは敗れ、敗戦国デンマークは1814年のキール条約により、400年続いたノルウェーの支配権をスウェーデンに譲らされた(ノルウェーに付属していたフェロー諸島、アイスランドやグリーンランドはデンマーク領に残る)。デンマークは小国に転落したのである。

 うち続く戦争や敗北で国家財政は破綻し、気候の寒冷化による農業の不振もあってデンマークは苦境に陥った。1830年には自由派が政権を握り殖産興業に勤め、また1844年にはニコライ・グルントヴィによる国民社会教育運動が始まり、教育立国を目指した(アンデルセンや実存主義哲学の祖セーレン・キェルケゴールもこの時代の人)。1848年、フランス2月革命をきっかけにヨーロッパ各地に革命が飛び火するが、デンマークは翌年憲法を発布して選挙権や職業選択の自由を認め、立憲君主国となった。
 民族主義運動でもあったこの革命に際し、デンマーク支配下にあるシュレスヴィヒ・ホルシュタイン公国ではドイツ系住民が統一ドイツ国家への参加を求め不穏になりプロイセン(ドイツ)との戦争になるが、ドイツ側の混乱やロシア・イギリスの仲介もあり現状維持が定められた。しかし1863年、憲法改正で同地をデンマーク領に正式編入するや再びドイツ側が反発、翌年にプロイセン・オーストリア連合軍の攻撃を受けることになった。圧倒的な敵軍に対しデンマーク軍は勇戦したが、デュッペル堡塁が玉砕して敗北、同地をドイツ側に割譲させられた。
 この敗戦で肥沃な同地方を失ったが、エンリコ・ダルガスらによるユラン半島での植林運動は農業を振興し(コーンビーフやチーズ、そしてビールは今もデンマークの主要輸出品である)、デンマークはヨーロッパでもっともリベラルで安定した農業国となった。19世紀の100年間でデンマークの人口は90万から250万とほぼ三倍増している。議会(フォルケシング)では農民党や自由派が優勢であり、農地改革が推進された。また1903年にはアイスランドに自治権を付与、1915年には社会民主党の躍進の中、普通選挙が導入された。

 1914年に始まる第一次世界大戦ではデンマークは中立を維持したが、ドイツ海軍潜水艦の通商破壊戦で保有商船の2割を失った。1920年、敗北したドイツ領内のシュレスヴィヒ州北部(デンマーク系住民が多い)で国際連盟による住民投票が行われ、75%がデンマークへの帰属に賛成、デンマーク・ドイツ国境は南に移動した。
 1931年にはグリーンランドの帰属を巡ってノルウェーと紛争になったが、ハーグ国際法廷の裁定によりデンマーク領とされた。国内では1920年に成立した社会民主党のトールワルド・シュタウニング内閣が22年に及ぶ長期政権を維持し安定しており、1930年代からは世界に先駆ける様々な福祉制度が導入された。
 1939年、第二次世界大戦の勃発を前にナチス・ドイツは北欧諸国に不可侵条約締結を提案し、デンマークのみが応じた。しかし翌年4月9日、ノルウェー占領を企図したドイツはこの条約を無視して中立国デンマークに侵攻、デンマークはほとんど無抵抗で即日降伏した。ドイツ軍占領下でデンマーク政府や国王は亡命せずに統治を続け「模範占領国」と呼ばれたが、抵抗運動が激しくなるやドイツは軍政を始めた(1943年)。デンマーク国民はナチスのユダヤ人迫害に対抗してこれを匿っている。1945年、ドイツの無条件降伏によってデンマークは解放された。なおこの間、米英軍の占領下にあったアイスランドが1944年に独立している。
 第二次世界大戦を教訓に、デンマークは集団安全保障体制である北大西洋条約機構(NATO)に加盟、また1952年に北欧諸国と北欧会議を結成している。しかし独自の平和政策追求(ノルディック・バランス)でアメリカなどとの軋轢もあった。1959年にイギリスが主導するヨーロッパ自由貿易協定(EFTA)に加盟したが、1973年にイギリスと共にヨーロッパ共同体(EC。のちEUに改編)に合流した。この間1948年にフェロー諸島、1979年にグリーンランドに自治権を付与している。
 常に左派が政権を担ってきたデンマークだったが、1982年におよそ90年ぶりの保守政権となるポール・シュリューター内閣が成立した。ヨーロッパ統合拡大に対しても、国民投票で1992年にマーストリヒト条約批准を(翌年修正条約を批准)、2000年に統一通貨ユーロの導入を拒否するなど、保守的・独自主権維持的な色合いを強めており、2001年には移民受け入れ制限を唱えるアナース・フォー・ラスムセン率いる中道右派政権が成立した。経済はEUの農業保護政策により安定している。


2007年03月13日

グリーンランド

 世界最大の島であるグリーンランドはデンマークの自治領で、南北2500km、東西1000kmに及び、面積が216万平方キロと日本の5倍以上、デンマーク本土の50倍もある。ところが南端を除きほとんどが北極圏にあるため、海岸部を除く島の85%が氷床に覆われており(つまり日本ほどの面積は氷に覆われていない)、人口は5万6千しかない。北端は北極点から710kmしか離れておらず、流氷に覆われた北極海に面している。一番近い隣国はバフィン湾の対岸であるカナダと、デンマーク海峡を挟んだアイスランドになる。
 「グリーンランド」は英語名だが、現地ではデンマーク語で「グレーンラン(緑の地)」、あるいは先住民カラーリトの言葉で「カラーリト・ヌナート(人間の地)」と呼ばれる。カラーリトというのは北極先住民イヌイト(いわゆるエスキモー)の一派でモンゴロイド人種であり、人口の9割を占める。自治権を得てからは地名表記がデンマーク語からカラーリト語に直されたが、首都ゴットホープ(人口1万4千人)もヌークと呼ばれている。
 北極圏だけに寒い。メキシコ湾流(暖流)のおかげで流氷の来ない南西部(ツンドラ気候)でさえ年間平均気温は日中-0.4℃、夜は-10℃であり、氷雪気候の内陸部では-70℃に達する。12月と1月は全く太陽が照らず、乾燥しているため年間46日しか降水がない。内陸部の氷床は厚さ最大3000mにもなり、これが全て溶けると地球の海水面は6~7m上昇するという。
 ただ氷に覆われていない地域では苔や灌木が生育し、「緑の地」というのは全くの嘘名ではない。陸地にはホッキョクグマだけでなくジャコウウシ、オコジョ、レミングといった珍獣が、海ではクジラやアザラシ、セイウチの他多様な魚類が住み、独特の動物相がある。

 グリーンランドに初めて人類が住むようになったのは紀元前2500年頃で、グリーンランド西岸のその文化はサカク文化という。イヌイトの祖先にあたる彼らは、ベーリング海峡から海沿いに渡ってきたらしい。当時は割合温暖だったようだが、ジャコウウシやトナカイ、アザラシ狩りや簡単な漁労で生活し、中央に炉(燃料は獣脂など)を備えている平石を立て並べたテントに住み、蛇紋岩で作った石器や骨角器を使用していた。同じ頃、グリーンランド最北端にも人間が住むようになり、そちらは地名からインディペンデンス文化(I及びII)と呼ばれる。
 紀元前1000年頃、気候が寒冷化し厳しくなると、人間もそれに対応を迫られる。それが前期ドーセット文化で、イグルー(主に移動時に使われる氷の住居)が発明され、またカルマク(石積みの半地下式住居)が建てられた(イヌイト神話にも反映されている)。彼らはフリント(火打石)の他、隕鉄から作った道具を使い、やはり海獣などの狩猟を生業としていた。
 紀元後600年頃以降繰り返される温暖期には、カナダ北部からニューファウンドランドまで、数千キロを隔てた交易が行われている(後期ドーセット文化)。

 気候の温暖化は同時に、北大西洋でのヴァイキングの活動を活発にさせた。ノルウェーのヴァイキングは870年頃にアイスランドに植民したが、アイスランドへの航路を外れたグンビョルン・ウルフソンが巨大な島影を見たのが、ヨーロッパ人によるグリーンランド発見であるという(グリーンランドの最高峰は彼の名に因む)。
 982年、殺人罪を犯したノルウェー人「赤毛のエリーク」はアイスランドを追放されたが、偶然海流に乗って1500km離れたグリーンランド南西部に到達し、そこを「緑の地」と名付けた。およそ北極に似つかわしくないこの名前は、当時はより温暖だったので木が生えていたためとも、アイスランドで移住者を募るための虚偽宣伝ともいう。3年後に彼は移住希望者と共に25隻の船団でグリーンランドに渡り、無事に辿り着いた14隻の700人が入植したという。
 彼の息子レイフは渡航先のノルウェーでキリスト教徒になり、1000年頃に宣教師を伴ってグリーンランドに戻った。こうして最初の教会が建てられたという。彼はアメリカ大陸(ヴィンランド)に入植を試みたことでも知られている。こうした記録は「サガ」と呼ばれる口承文学によるものだが、1076年にはドイツのハンブルク司教区の記録にもグリーンランドが言及されている。
 1124年頃には教区が置かれ、1261年にはノルウェー王の、また1380年にはノルウェーを統合したデンマーク王の支配下に入ったが、3000km離れた遠隔地ゆえに現地人は実質的に自治を維持していた。グリーンランド入植地は人口数千、36の教会を数え、豚や牛を自給しており、ヨーロッパにセイウチの牙や魚介類を輸出し、逆に必需品である木材、鉄、そして贅沢品を輸入していた。
 ところが1350年には西部の集落放棄が記録され、1408年の婚姻記録を最後に文献史料も絶え、グリーンランド入植者(ノース人)の消息は伝わらない。考古資料などから、遅くとも1550年頃にはノース人入植地は消滅したと見られる。その原因として14世紀の気候寒冷化(小氷期)、経済的不振による放棄、乱伐による環境破壊、先住民イヌイトによる襲撃、あるいは彼らとの混合などの説が挙げられている。特に最後の説は以前支持を得たが、最近のDNA分析は両者の混血が無かったことを示している。
 
 ヴァイキングがグリーンランドに入植したのと同じ頃、アラスカにトゥーレ文化が発達する。カヤク(一人乗りカヌー)やウミヤク(最大20人乗りのボート)、そして精巧な銛の発明は、捕鯨を可能にした。鯨は捨てる所がないというが、その皮(コロ)は北極圏で不足しがちなヴィタミンCを豊富に含み、鯨油は暖房に使え、その巨大な肋骨で大きい住居を作ることが可能になる。また犬橇が発明され、冬季の移動が容易になった。
 1000年頃までにドーセット文化の痕跡が希薄になる一方(このためヴァイキングが到達した時グリーンランドは無人島だったともいう)、1200年頃から新たにトゥーレ文化の遺物がグリーンランドに見られる。この頃アラスカ辺りから新たにイヌイトが移住したと考えられており、彼らが現在のカラーリトの直接の祖先となる。
 上述のように14世紀から北半球は小氷期を迎えるが、自然環境が厳しくなる中グリーンランド北部は放棄され、南下したイヌイトとノース人との間で交流や摩擦があったことは想像出来る。
 
 その後暫くグリーンランドはヨーロッパ人に忘れられていたが、17世紀初めからヨーロッパの捕鯨船が近海に出没するようになった。グリーンランドは捕鯨船の寄港地として注目されるようになり、年間1万人もの捕鯨船乗組員が上陸するようになる。彼らは先住民カラーリトとの接触はあったが、定住はしなかった。
 1721年、ノルウェー人(ただし当時ノルウェーはデンマーク領)牧師ハンス・エゲデがグリーンランドに上陸、カラーリトへの宣教を開始した。交易基地も置かれ、1776年には王立グリーンランド交易会社が交易と宣教を独占するようになった。カラーリトの文化はヨーロッパの強い影響を受け始め(貨幣経済への依存や新しい伝染病の蔓延など)、また混血が進んでいくことになる。
 19世紀にもオランダ、ドイツ、デンマーク、ノルウェーなどの捕鯨船が頻繁にグリーンランドに寄港した。1863年にノルウェーで捕鯨砲が発明され、捕鯨はより効率的かつ大規模になっていくが、同時に乱獲を招くことになった。ヨーロッパの捕鯨船の目的は鯨肉ではなく、鯨油やゼラチン、脂、鯨蝋、龍涎香で、特に鯨油は爆薬(ニトログリセリン)製造に重要だった。
 ナポレオン戦争後の1814年にノルウェーはデンマーク支配下から離れたが(キール条約)、その属領であるグリーンランドはデンマーク領に留まっている。1862年にはグリーンランドで最初の地域議会が開かれ、1911年には郡議会が開設された。1925年からは郡政府に統治されたが、いずれもデンマーク政府の下部に置かれ、決定権はほとんど本国にあった。
 1888年、ノルウェーの探検家フリチョフ・ナンセンはスキーでグリーンランドを横断、その内陸が氷床に覆われていることを報告した。またデンマークとカラーリト双方の血を引くクヌート・ラスムッセンは1912年から33年まで7回にわたる北極探検を行い、北極の地理やイヌイトの民俗を調査した。彼の報告はイヌイト文化に関する基本文献である。

 第一次世界大戦後の1921年、デンマークはグリーンランド全土の領有を宣言したが、元々領有していたノルウェーは、1814年のキール条約は当時開拓済みだった西部にしか適用されないと抗議した。1930年にはノルウェーの漁民が東部の無人地帯に上陸して占拠、領有を宣言したが、ハーグ国際法廷がデンマーク側の主張を是としたためノルウェーは手を引いた。
 第二次世界大戦中の1940年5月、デンマーク本国はナチス・ドイツに占領されてしまった。ドイツがグリーンランドを基地として通商破壊戦に使用することをアメリカは恐れたが、駐米デンマーク大使の一存で米軍のグリーンランド進駐が決まった。ドイツ軍は1942年に秘密裏に観測班をグリーンランドに上陸・越冬させ、北大西洋の気象情報を入手していたが、翌年デンマークのパトロール隊に発見され、観測基地を空襲されて撤収した。この時ドイツ軍に射殺された隊員が、グリーンランド唯一の大戦犠牲者となった。
 大戦が終わってデンマークは解放されたが、今度はアメリカとソヴィエト連邦の間で東西冷戦が始まった。デンマークは北大西洋条約機構(NATO)に加盟し、1951年にアメリカとグリーンランド共同防衛協定を締結した。ソ連が北極圏越しにアメリカ本土を攻撃する場合、グリーンランドはまさに最前線となるため、アメリカは飛行場やレーダー基地を置いた。
 
 デンマークによる交易独占は1950年に解消され、1953年には植民地から海外郡に昇格しデンマーク国会に議席を得た。1955年にはグリーンランド省が設立され、住民の生活向上に努めてゆく。飛行機やヘリコプター、砕氷船などの利用は住民の生活レベルを向上させたが、同時にイヌイトの伝統的な狩猟生活が失われ、都市部への定住化が進み失業が問題化することになる。
 デンマーク本国人と現地出身者には賃金差別が公然と行われていたので、1960年代からは住民の権利向上や自治権獲得運動が盛り上がった。1973年にデンマークがEC(ヨーロッパ共同体、のちEUに改編)に加盟すると、この運動はますます盛んになった。前年に行われたEC加盟を問う住民投票はグリーンランドに限れば反対が上回っていたが、アメリカやカナダとの経済関係を強めたグリーンランドにとって、ECの設定する関税や、近海で操業するEC国籍漁船の活動、EC企業の優先的地下資源探査は不利だったためである。
 住民投票の結果を受け、1979年にグリーンランドは自治権を獲得した。更なる住民投票の結果、1985年にグリーンランドはデンマーク領でありながら独自にECを脱退した。EC加盟を希望する国が多い中、脱退したのはこれが唯一の例である。ただし現在もEUと協力関係にある。


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